LOGIN頭の中が真っ白になる。生きている……。一ノ瀬美緒のお腹の中に居た子供が……。「所在は分かるのか?」そう聞くと日下部が頷く。「既に人をやっています」そう言われて俺は少し考え、そして言う。「美緒には知らせるな、全て秘密裏に進めろ。奪還するんだ、大事な子を」そう言うと日下部が頭を下げて言う。「御意」部屋に一人になり、考える。まだ日が明けてそれ程、経っていない ――普段なら仕事に出向き、退屈な連中を相手に退屈な時間を過ごしている時間帯だ。俺は朝からの激動の動きに少し微笑む。一ノ瀬美緒が俺の人生に現れてから、俺の人生は一変した。あの夜、悪意のある人間の策略だったとしても。一ノ瀬美緒と出会い、関係を持ったあの感覚は、俺のそれまでの人生がいかに退屈だったかを思い知らされる出来事だった。あの夜以降、また退屈な時間を過ごしていた俺にもたらされた一ノ瀬美緒の訃報。失ってしまうかもしれないという可能性について、気付く間もなく失い、俺は喪失感に囚われていたのに。彼女が自ら、俺の元へ飛び込んで来たのだ。そして知らされた事実 ――一ノ瀬美緒は俺の子を妊娠していた可能性があった事、そして既に彼女自身は堕胎手術を受けている事、そのせいでその命は失われたと彼女自身は思っているだろう。その子供が生きているとなれば、それは奪還しない訳にはいかない。美緒の身体はそういう事情を抱えていた訳か……だからあんなに疲弊していたんだと分かると、更に怒りが募る。全てのピースが俺の元に集まって来た。あの夜、一ノ瀬瑛理香と高橋翔太が共謀し、俺と一ノ瀬美緒に関係を持たせた。その根底にあるのは一ノ瀬家の乗っ取りと、一ノ瀬美緒の排除だろう。そして何故、堕胎した後に取り出された命が生かされているのか。一体、何を企てて、何をしようとしていたのか。一ノ瀬美緒はどうやって生き延びたというんだ?その辺りも探りを入れた方が良いだろう。きっと一ノ瀬美緒に手を貸した者が居る筈だ。一ノ瀬華瑛、一ノ瀬瑛理香、一ノ瀬恭介、高橋翔太……全員揃って地獄に送ってやる。◇◇◇一ノ瀬美緒が死んだ。これで私はやっと目的の半分を達成したという訳だ。葬儀から戻って、さすがにその日のうちに一ノ瀬美緒の部屋を片付け始めたら、夫にも、世間にも申し訳が立たない。だから私は片付けたい気持ちをグッと我慢する。
ベッドに横になって少し経った頃。部屋の扉が開いた。上原さんだろうかと視線を向ける。部屋に入って来たの九条征哉だった。しかもサービングカートを自ら押して。「食事を持って来た」そう言われて私は驚きながらも体を起こす。(何故、九条征哉本人が……?)そう思いながら私は半身を起こし、九条征哉が運んで来た食事を見る。「体調が優れないだろうから、体に優しいものを作らせた」そう言って九条征哉は背後に居る日下部さんに頷いて見せる。日下部さんは微笑んで私の居るベッドにベッド用のテーブルを置き、九条征哉がそのテーブルの上に温かいスープを置く。「貧血のようだな」九条征哉がそう言ってベッドサイドに椅子を置き、座る。さっき私が倒れたのが貧血のせいだと思ってくれているなら、都合が良い。「えぇ、昔からそうなの」そう言って私は自分の不調を隠す。「食べてくれ、貧血が良くなるよう、それ用に作らせた」(一体、九条征哉はどうしたと言うんだろう?)そう思いながらも私は鎮痛剤を飲む為にスープを口にする。「……美味しい」言うと九条征哉が小さく頷く。「それで良い」九条征哉はそう言って後ろに控えている上原さんに視線を送る。上原さんはサッと前に出て、真っ白な薬の入った袋を差し出す。九条征哉がそれを受け取り、言う。「鎮痛剤だ」そう言ってテーブルの上にその袋を置く。(そう言うという事は……痛みがあるという事を知っているのね)正直、九条征哉がそんなところにまで気が回るとは思っていなかった。私個人に対してはそれ程、興味など無いと思っていたから。「多田は……処理済みだ」
吐き気がする。美緒をあんなふうに扱っておきながら、俺に対しての想いをこんな形で表現するとは。女の嫉妬なんてこんなものだ。俺は立ち上がり、多田を見下ろす。「お前は俺の命令に背いた。何もしなかったとお前は言うが、俺は敬意を払えと言ったんだ。何もするなとは言ってない。従ってお前はもう九条家には不要の人間だ」そう言い放つと多田が俺に縋ろうと手を伸ばす。その瞬間、日下部がサッと動いて、多田が伸ばしたその手を蹴り上げる。「触れるな! 汚らわしい」俺は蹴り飛ばされた多田を一瞥し、踵を返す。歩きながら言う。「これより三日間、自省の間にて反省を促し、それ以降は九条家及び、関係各所から追放だ」そう言って自省の間を出る。叫び声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。(五体満足で屋敷を出られる事に感謝するんだな)そう思いながら俺はその最奥から本屋敷に戻る。◇◇◇温かい……寝返りを打つ。柔らかい感覚……。美緒……誰かの声、すごく優しくて、その声に愛情が込められているのを感じられる……。温かい誰かの手が私の頭を撫でている……。この手は誰の手なの……?不意に感じる不快な痛み……そうだ、私は堕胎手術を受けて……!ハッと目が覚める。豪奢な天井が見えて、現実に引き戻される。そうだわ、私……シャワーを浴びて、具合が悪くなって倒れたんだった……。体を起こす。ベッドに寝かされている……。(誰かが助けてくれたって事?)自分が倒れた場所を見る。シャワールームから出てすぐの場所、そこはもう私が倒れた形跡すら無かった。部屋を見回す。私が倒れる寸前、見たあの光景。多田さんが私に対し、暴言を吐いている最中に見たものは全て、綺麗に片付いている。食べ散らかしたようなテーブルの上のお菓子も、多田さんが投げたソファーの上の雑誌も。そして何よりも、私は今、きちんと下着を付けている。誰かが私を着替えさせたという事だ。ズキズキと痛む下腹部を感じながら、私は冷静に考える。私が倒れ、気を失っている間に、部屋は綺麗に片付き、私は下着を付けられ、ベッドに居る。これを命じたのはおそらく九条征哉だろう。氷の契約書にサインさせ、血判を押した私の血の流れた親指を口に含み、冷たい指輪で私を拘束した男……その男が倒れている私をこんなふうにベッドへ戻したというのだろうか。不意に扉が開く。入って
入って来たメイドは静かに一礼し、言う。「上原と申します」俺は上原に命じる。「今すぐに美緒の身支度をしろ」上原は小さく頷いて、パタパタと駆けて行く。「征哉様」日下部が声を掛けて来る。「何だ」聞くと日下部が言う。「美緒様のお召し替えの間、少しお時間を頂いても良いでしょうか」俺はベッドに眠っている美緒を見ながら、後ろ髪を引かれる思いで頷く。「分かった」どうせ美緒の着替えを見張るつもりは無い。部屋に上原が入って来る。「頼んだぞ」そう言って俺は美緒の部屋を出る。廊下を歩きながら聞く。「それで?」そう聞くと日下部が言う。「多田なんですが」そう言われて俺は顔をしかめる。「多田はどこだ?」そう聞くと日下部が言う。「屋敷の最奥、自省の間に」そう言われて俺は頷く。屋敷の最奥、そこは九条家の中でも、人が立ち入らない場所だ。屋敷の中の使用人が何か失敗をした時、自ら反省を促す為に使われる部屋がある。そこは部屋自体に何も無く、本当にがらんとした部屋だ。自省の間に入る。部屋の真ん中に多田が膝を付いていた。「征哉様」多田はそう言って俺を見上げる。その瞳には涙が溜まっている。その涙を見るだけでもイライラする。俺はツカツカと真っ直ぐに多田に向かって歩き、多田の前に立つと、さっき張った頬とは逆の頬を張る。多田が倒れ、床に手を付く。何をしてもイライラは収まらない。「お前は俺が命じた事を真に理解していなかったようだな?」そう言うと多田は頬を押さえながら言う。「私は何も!」そう言われて俺は多田を睨み付ける。「本当にお前は何もしなかったようだな」日下部がタブレットを持って来る。「美緒は下着すらも用意されず、具合が悪くて倒れ込んだ時に、介抱もされなかった。美緒がシャワーを浴びている時に、俺が美緒の為に用意した物を躊躇なく使い、部屋を散らかした」そう言いながらタブレットに映し出される映像を見せる。映し出された映像には美緒がバスルームに消えた後、溜息を付きながらソファーに座り、傍に置いてあった雑誌をめくり、テーブルに用意されていた菓子を摘まむ多田が居た。多田は立ち上がると、その汚れた手でクローゼットを開け、中に入っていた服を数枚手に取り、自分に当てて、鏡を見たりしている。そのままクローゼットにその服を投げ入れ、今度は宝飾品を手に取り、眺め、
目の前であの女が倒れ込む。私はそれをひらりと躱す。ドサッ!!鈍い音がして、女が倒れる。このまま死ねば良いのよ……そうだわ、このまま報告せずに時間を引き延ばして、取り返しのつかない事にでもなれば、この先、苦労して追い出す手間も省けるわ。そう思っていたのに。「美緒!!!」そう声がして振り向く。そこには青い顔をした征哉様が立っていた。征哉様は駆け寄って来て、その女を抱き上げる。「日下部! 医者を呼べ!!」そう命令し、ベッドにその女を運ぶ。日下部さんが部屋を走って出て行く。私は一気に血の気が引く。(マズい、マズいわ……征哉様はいつからあの場にいらっしゃったの?)ベッドにあの女を横たえた征哉様は振り返って私を睨む。「どういう事だ、多田」そう言われて私は言う。「私は別に何も……お嬢様がバスルームから出て来られたので、御髪を乾かして差し上げようと近付いたら……」ツカツカと征哉様が私の前まで歩いて来た。次の瞬間には私の頬が叩かれる。その反動で私は2,3歩後退る。頬が裂けるかと思う程の痛みに私は自分の頬を押さえる。「俺は言った筈だぞ、美緒に敬意を払えない者は必要無いと」私は必死に弁明する。「ですから私は何も!」そう言うと征哉様が部屋を見回す。「……本当に何もしていないようだな」そう言ってツカツカとソファーまで歩き、そこに広げられた雑誌、そして食べかけのお菓子を指差す。「美緒はシャワーを浴びていた筈だ、じゃあ、これは何だ?」聞かれて私は答えに困る。どうせシャワーの間は暇なんだからと、誰も部屋に居ないのを良い事に私はあの女の為に用意された雑誌を眺め、お菓子をつまんでいたのだから。「征哉様、お医者様が」日下部さんが息を切らし、部屋に入って来てそう言う。征哉様は私を睨み付けると、言う。「出て行け」その瞳にははっきりと“殺意”が込められていた、背筋が冷える。私は部屋を走って出る。征哉様から発せられる殺意にゾッとしたからだ。私は何もしていない ――それは正しい。私はあの女の為に何一つしていないのだから。言葉を交わしただけで、指一本触れていない。ツカツカと廊下を歩きながら、私は私に発せられた征哉様のお言葉の意味を考えてハッとする。“出て行け”と征哉様はそう仰った。私は部屋から出て行けという意味に受け取ったけれど、もしかしたらあれはこ
あの女は私に一言“出血量が酷いの”とそう言った。それで何もかもを用意して貰えると、そう思っているの!?バスルームに消えて行くその女の後ろ姿を見ながら、私はスッと表情を滑り落とす。良い度胸だわ、敵陣に入り込んだ異物のクセに。不意に部屋の扉が開く。振り返るとそこには日下部さんが立っている。「美緒様はどこへ?」無表情のままそう聞く日下部さんに私は軽く頭を下げたまま言う。「シャワーを浴びたいとの事で、バスルームへ」私がそう言うと、日下部さんはほんの少し微笑み、後ろを振り返って言う。「手短に、さっさと入れろ」日下部さんがそう言うと、何人もの使用人がドカドカと部屋に入って来て、部屋のクローゼットを開け、中に服や装飾品を手際よく入れて行き、他の使用人たちは部屋に花を運び入れ、部屋を整えて行く。「お前もさっさと美緒様のお支度の準備をしろ」日下部さんにそう言われて私は自分の感情を押し殺し、それに従う。ほんの数分で部屋自体が明るくなり、この部屋があの女の部屋なのだと分かる。屋敷の奥、普段ならお屋敷に来たお客様が入る事も出来ない領域の部屋……この部屋をあの女に与えると言うの?クローゼットに入れられた煌びやかな服や宝飾品たち。私がどれだけ頑張っても手に入れられない高級品。それをあの女は征哉様を誑かして、手に入れている……。「さぁ、下がれ。早く!」日下部さんはそう言って、部屋に残る私を一瞥して言う。「良いか? 決して失礼の無いように、良いな?」そう言って静かに扉を閉める。部屋を見回す。美しく統制のとれたお部屋……それをあの女に渡すなんて……。私の中の悪意が顔を出す。そうよ、何もかもを与えられてはいるけれど、何もかもがあの女の物では無いのよ。恥をかけば良いのよ、血を流しているあの女を見れば、征哉様だって目が醒める筈だわ。◇◇◇温かいシャワーを浴びる。体中の緊張がほぐれて行く。流れ出て行く血の量が多いかもしれない。今、体を労わらないと、この先、私は自分の身体に不調を抱える事になりそうだと思うと、それも怖い。ちゃんと処置してくれたんだろうか……藪医者だったら……もしかしたら私はこの先、子供を産めない体になっているかもしれない……そう想像すると、恐ろしい。下腹部が痛い……チカチカと目の前で光がぶつかり合う感じがして、私はシャワーを浴びながら壁に手を
及川との通話を切る。軽く溜息をつき、私は私の夫の元へ向かう。入るなと命じられている部屋に近付く。中からは嗚咽が聞こえる。私は静かに扉を開け、中に入る。部屋に入って来た私を見て、私の夫は視線を伏せる。私は夫に近付き、その肩を抱く。「火事は事故だったのよ……」慈愛を込めた声を装い、そう言う。「あの子の葬儀はもう手配しました。だから安心して、あなた」肩を抱いた私の手を握る、私の夫は泣き崩れている。「すまん……」夫はそう呟くように言って、肩を揺らす。私はそんな可哀想な夫を見つめながら、ほんの少し微笑む。部屋を出て、扉を閉めて。笑みが零れるのを我慢出来なかった。誰にも聞こえない声で
目の前で。オレンジの炎が燃え盛っている。夜空に映える炎のオレンジ色はその触手を天に伸ばし、更に炎自身が燃えるものを探している。炎の触手の先からは黒煙が立ち上り、夜空の星を覆い隠す。私を閉じ込めて、絶望の淵へ追いやった療養所という“檻”は、今はもう燃えながら歪み、崩れ落ち、灰と化して行く。「お嬢様」及川が私の横に立つ。「今この瞬間からお嬢様は灰になりました。もう一ノ瀬家の令嬢ではございません」全ては燃えて灰になった……私と一ノ瀬家の縁も、そして未練も全て燃えて灰になったのだ。思い出されるのは幼い頃の記憶――お母様が生きていた頃は……私もお父様に確実に愛されていた。お母様とお父様
及川は私を見つめ、頷く。「お嬢様、生き延びてください。それもあなたのお母様の最後の願いなのですから」そう言われて私はポロポロ落ちる涙を拭い、聞く。「私は、何をすれば?」及川が簡潔に言う。「時間がありません。今すぐにお嬢様のお召しになっている服とネックレスを外して頂けますか」及川はそう言って自分の足元にある遺体袋を見る。「この遺体にお嬢様の服を着せ、ネックレスをつけさせます。そうすればお嬢様は死んだ事になり、万が一にも生きている事が知られたとしても、その時にはお嬢様はここから遠い地へ離れている事でしょう」及川は私に紙袋を渡す。「着替えは中に」その紙袋を受け取る。漆黒のワン
目が覚める……。チカチカと視界が霞む。寝かされている場所は……色味の無い部屋……? (ここは……どこ……?)(昨日のあれは……夢だった……?)微かな希望だった。昨日の夜の事は私を襲った悪夢、そう思いたかった。けれど。







